たまにはマジメに。
2006年5月8日『香乱記』3〜4巻、読了。
ネタバレの懸念があるので一応保護色に。
(といっても半分は『史記』と変わらないからネタバレでも何でもない)
要約は最後の2行で。
あとがきで秋山駿氏が、本作を「『史記』の向こうを張った作品」と
表していたが、私は逆に、『史記』を敷衍した、或いは『史記』で潜在
していた事項を公開した、という部分が非常に多いと感じた。
元々宮城谷作品は『左伝』臭が強く、という事は概ねが「正義は勝つ」
物語である。
だが『史記』の思想は、冒頭の伯夷伝で象徴される、「天道、是か非か」
であり、『左伝』とは好対照だ。
田横、ひいては『香乱記』がどちらのテーマに則っているか。
言うまでもないだろう。
思えば、『香乱記』のメインテーマの一つであろう『不羈』は、既に
伯夷伝で語られている。※伯夷伝は列伝第一、田タン田は第三十四
それは覇道に対して批判、否定した点も共通するのだが、彼らが兄弟で
しかも王位を譲り合った点など、他にも類似する部分は少なくない。
伯夷伝でうたわれる「采薇の歌」に、こんなフレーズがある。
「暴を以て暴に易え、其の非を知らず。」
視点を変えてみる。
秋山氏が本作を『史記』の対抗者と見たのは、おそらくは漢に対する
その辛辣な評価故であるかと思う。
だが『史記』をよく見ると、実は『香乱記』での視点が司馬遷のそれよ
比べ、程度の差こそあれ、方向性には殆ど差がない事が判るのである。
例えば、韓信。
一般的には史上稀な名将として知られる彼の『香乱記』における評価は
極めて低い。特に、その死にあたって
豈非天哉
つまり、天命でなくて何であろう、と嘆いたことについて、殆ど死者に
鞭打つかのようにその非を責めているのが印象的だ。
では『史記』ではどうなのかというと、やはりこれも非常に手厳しい。
すなわち、一族皆殺しとなった件について太史公曰ク、
不亦宜乎
そりゃまぁ当然だろ、と一刀両断なのである。
先に挙げた「天道、是か非か」の思想を前提に考えれば、これが最下級の
評価であることは容易に判る。
劉邦。
この漢の始祖に対する司馬遷の批判は『史記』の至る所に散見される。
当然ながら高祖本紀での直接の批評は避けているものの、『史記』全体を
マクロに見れば、儒者の冠を取り上げて小便を注ぐとか、重荷になるから
といって自分の子供を馬車から放り投げて自分は危機を脱するいった、
到底褒められた事ではないエピソードが甚だ目立つのである。
この辺りのことは有名すぎて今更書くまでもないので、ここまで。
田横。
『史記』でも、概ね「絶賛」という位置づけで間違いない。
細かく書くのは控える。
このほか、田横にとっての最大の痛恨時であった和睦無視の提言者である
カイ通に対しては(何故か?)低い評価が与えられていない等、少し
深入りすれば幾らでも例を挙げられそうな気がする。
解説に対しての感想があまり濃厚になっても仕方がないので閑話休題、
『香乱記』の率直な感想を。
個人的には、作品そのものの面白さは、実は今ひとつと感じている。
田横はその最後が有名、というより、その最後が田横という人物に名を
成さしめたという方が正しい。
その最後にアレンジを加えることは、ほとんど史上の田横像を否定するに
等しく、物語として成立しない。もちろん『香乱記』でも、その最期に
関しては『史記』のそれとほとんど差がない。
が、私が今ひとつと感じたことは、それと直接は関係しない。
私には、田横という人物の偉さ、あるいはかっこよさと言った事を、
どうにも感じ取れなかったのである。
田横を主人公に据えた物語を構築しようとするなら、帰納的にならざるを
得ないように思う。先に書いたとおり、ラストを動かせないからである。
そしてそのラストを現出する為には、田横に優れた人格を与えざるを
得ない。実際、本文中では、時に筆者自身が、時に登場人物が、幾度と
なく田横を賞賛している。それを作為と評するのは酷だろうし、それが
たとえ作為であっても不満はない。
ただ、どうもそれが予定調和的に感じてしまったのである。つまり私は、
帰納的な構築手法に付きものの弊害をもろに受けたという事だ。
『史記』を知らない人があの最期を見れば普通は愕然とするだろうし、
かつそれが創作ではないことを知ればなお驚くだろう。
もし私がそうであれば、或いは違う感想になったかもしれないのだが。
なお、過去に類似した主人公を持つ宮城谷作品を一つ挙げるとすれば、
おそらく『介子推』になるかと思う。
しかし、ラストの衝撃は田横のそれより遙かに大人しい事、元々異説が
ある(重耳が介山に故意に放火した)などがあるためか、その最後は
『介子推』でも多少のアレンジがかかっており、『香乱記』とは同列に
扱えないと考えている。
でもまぁ実のところ、宮城谷式の主人公に慣れすぎたから、というのが
一番の原因という気もするのよね。あっはっは。
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