漢字在菩薩
2006年4月9日古本にて『李陵・山月記』(中島敦)を購入。これで三回目かな。
今回の角川版は、『漢書』李陵伝、さらに司馬遷の『任少卿に報ずる書』
の書き下し文が付いており、かなりのオトク感。
特に、後者を載せるあたり、編者はツボを心得ていると思う。GJ。
とはいえ既読である上、いつでも読めるサイズなので、キューイングは
しない方向で。
以前速水氏が人名に用いる漢字について意見していたのを思い出し、
PC上で使用できる漢字の枠の狭さを連想した。
※あくまで連想。要するに本来のネタとは殆ど関係がない。
私個人としては、日本人が文章中で使用する可能性のある文字(繁体字)
は、全てPC上で表現して欲しいところである。
そんな少数派の意見なんざ聞いてられるか、もっと優先すべき言語は
他にあるだろ、という指摘があるかも知れないが、これには明確な反論が
ある。
今更言うまでもなく、漢字は既に、日本語の中で独自の立場を得ている。
元来は他国の文字であるにもかかわらず、もはや日本語とは不可分の
関係になっているのである。
つまり、漢字はあくまで漢字であるが、それは日本語としての漢字なので
ある。そして漢字無しに漢字を表現するのは事実上不可能で、カナでの
代用では明らかに足りない。
そのことを念頭に置けば、多言語と同一視出来ないことは明らかだ。
要するに、例えば「アラビア文字をサポートしろ」といった話とは、
次元が完全に異なる。
こんな言い方をするのは非常に恥ずかしいのだが、時代の変化、という
事も忘れるわけにはいかないだろう。
これは半ば推測だが、JISの規格が厳しい理由は制定時の漢字ROM等の
コスト&容量の制限のためであろう。であれば、今となってはその制限を
危惧する必要は無いはずなのである。
また、私のように、ペンで書くよりキーを叩く機会の方が多い人は増えて
いる筈で、今後も増えるだろうと予想するなら、この弊害が増えることは
あっても減ることは無いと思うのだが、どうなのだろうか。
いずれにせよ、表現できない文字があるのは、機会として甚だ不便だ。
とはいえ、さしあたって私が困るのは、歴史ネタをテキストに書く際、
表示できない漢字が多すぎる、というだけの事ではあるが。
実際、先日の”秦の宰相”でも、穣公の諱が出せずに割愛したし。
# 気に入らないのは、今のJIS規格での選出基準が、あくまで
# 「使われている字」であって「使われうる字」では無いこと。
# システム構築にはマージン取るのが基本だろ、と思うのだが。
まぁ私は専門家じゃないから細かい事情は知らんけどな。
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