兄さん頭が痛いよ
2005年8月7日睡眠時間に多くを割く、いつもどおりの休日。ぐだーぐだー。
『曹植』の件。
……といいつつすこし回り道し、裴松之注についてもう少し考えてみた。
そもそも裴注は『(正史)三国志は事実のみで簡潔すぎる』という動機で
執筆されたものである。そんなシロモノなので、稗史や民間伝承なども
多く取り入れているらしいし、かつその中で生じた矛盾は彼の判断で
訂正・再評価が行われた事は裴松之自身が認めている。
また、裴松之の評にしても必ずしも公平ではないと思える。
例えば、これは有名な話だが、荀?・荀攸をべた褒めする一方、賈ク
(文和;漢字コードの都合で諱での記述不可)には能力云々を超えて
ほとんど悪意に近い評価を下している。
なるほど、この両者を儒教的観点で単純比較してみれば、前者贔屓になる
のもムリはない……と、そこまで単純な評価では無いのかも知れないが、
総じて裴注には判官贔屓的な面があると思う。
付け加えると、裴松之が仕えたのは六朝・宋。先述の『世説新語』が成立
した王朝と同じだったりする。なかなか興味深い事実だ。
また、この王朝が劉姓である(よってこの王朝は劉宋とも呼ばれる)のも
面白い。これを考慮すると、自然と劉姓の蜀漢贔屓≒判官贔屓になって
しまい、後の『三国志』観もこの流れをくんで蜀漢贔屓になっていった、
とは考えられないだろうか。
………さすがに飛躍しすぎのような気もするが。
いずれにせよ、この判官贔屓的な傾向が、後の『演義』等における曹丕・
曹植の偶像へ微妙な陰翳を付与し続けてきたのは間違いないと思う。
ところで荀?は、子・荀?が曹植派なこともあってか、死後に追悼される
等、曹植に親しい人物だったようだ。
一方、賈クは立太子から魏帝即位に至るまで一貫して曹丕側。
これを以て贔屓を裏付けるのはそれこそ飛躍が過ぎるが、しかしいささか
奇妙な符合ではある。
つづく。
夜、激しい頭痛。
摂取したアルコールは微量なのでこの現象はおかしい。しかし訝れば直る
というものでもないため、20:30就寝。一度24:00頃に目覚めたものの
結局頭痛は治まっておらず、再度布団へ。
最近、こういうパターンが多い。何が原因なんだ一体。
あぁそうか、明日から仕事だからか。
いやまて、なぜそんな結論が出てくるか。私は勤勉なのがウリですよ?
ともあれ寝る。
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