地上最高の兄弟喧嘩だ
2005年8月5日『曹植』の件、にはつめ。
曹植は魏の王位(あるいは帝位)を望んでいたのだろうか、という点。
実は、曹植本人にその意志があった、という記述は『魏志』に無い模様。
陳思王(曹植)伝で、楊脩や丁兄弟は曹植が魏の跡目を継ぐ事を望んで
いる、という旨の記述があるが、本人の意志には言及していないのだ。
いずれにせよ、だからこそ邪推の余地がある、ということだわな。
以下、ちょっと興味深く思ったを挙げておく。
曹操死後、曹彰が曹植に対し、「お前を支持して曹丕へ対抗しよう」と
持ちかけた時、曹植自身が「袁氏の兄弟を忘れたか」と言って拒否した、
というものである。
出典は『魏志』任城王(曹彰)伝の裴松之注。
言うまでもないが、袁紹の息子達は、長男・袁譚と三男・袁尚による
後継者争いの末に自滅している。
魏の後継争いという現実を袁氏の滅亡に投影すれば、曹彰が袁煕となる
こともさることながら、自分が袁尚となってはならない、つまり自分が
後継者を望んではならないという事を、曹植が悟っていたということで
ある。その曹植が、嫡子である曹丕をさしおいて高みを窺う事がある
はずがない。………というのが、そのおおむねの寓意であろう。
しかしこれはあくまで裴松之注に載っている話であり、オリジナルの
『魏志』には記述がない。
あぁ、それじゃこれも後代の脚色か、と当初は思ったのだが…。
じつはこの裴注の引用元が『魏略』だったりするから話がややこしい。
『魏略』は『魏志』より古く、陳寿ですらときおり引用しているような
史書なのである。
ならば、その陳寿が先のエピソードを正史に記さなかったのはなぜだ、
という事になる。
恥ずかしい話だが、この答えは私の中でもまだまとまっていない。
単に史実として信用できなかったから、というのが妥当な気がしている
のだが、そうなると陳寿は「曹植に野心あり」と見なしていた事になる?
ような気もする。
何せ、やんごとなき身分の人物の、直截的な表現が憚られる内容である。
さらにいうと、曹植の子孫は晋王朝でも重用されているから、迂闊な事は
書きづらいので、楊脩や丁兄弟を矢面に立たせて曹植本人の意志は煙に
巻いた、という解釈も出来なくはない。
が、どうにもすっきりしない。実際ははどうなのだろう。
なお、曹植は晩年になってから、国政へ参加を強く欲したようだ。
晩年、というのはおそらく曹丕死後、曹叡の代になってからだろう。
曹操の嫡流による体制が盤石になり、自分が政治に参画しても波風は
立たないと判断したからかもしれない。
または、変わらず自分を警戒していた曹丕が居なくなって、それまで
練り上げてきた政治的経綸を発揮する機会を得たと判断したからかも
しれない。
ということで、これまた邪推の余地はある。
つづく。
今日の人狼ダイジェスト@TM人狼隊。15人、狂人。
人狼不利、しかもキツネ考慮まで必要なこの環境で、占い騙りはかなり
消費カロリーが高い。のだが、所詮はバカの一つ覚え。開幕で真占いの
妖狐直撃を警戒しつつCO。
……で、真占いが開幕3日で黒ヒット*2。勝てるかっっっっ。
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